ミスチル桜井さんが好きすぎて・・・

~目じゃないとこ耳じゃないどこかを使って見聞きをなければ見落としてしまうブログ~

HERO~真のヒーローの意味を問うた、天才桜井和寿の構成力が光る一曲~

 

こんにちは、口笛少年です。

今回扱うのは、2002年リリースのMr.Children24枚目のシングル『HERO』です。

NTTのCMに使われており、2004年リリースのアルバム『シフクノオト』にも収録されています。(余談ですが、私が「ミスチルのアルバムの中で一番好きなのは?」と聞かれて必ず答えるのがこの『シフクノオト』です)

 

※このブログに書かれていることは、あくまで個人的な見解です。

桜井さんの本意をあぶり出そうというよりは、私の勝手な解釈を楽しんでいただくためのものです。

なので、「なるほど!ちなみに私はこう思ってます!」といった意見の交流はぜひしてみたいのですが、「桜井さんはそんなこと言ってないはず!」みたいなおっかない非難はこのブログの趣旨に反するので、コメントを承認しない可能性があります。ご了承ください。

 

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例えば誰か一人の命と
引き換えに世界を救えるとして
僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ

愛すべきたくさんの人たちが                                                                 
僕を臆病者に変えてしまったんだ
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この曲の主人公“僕”は、「愛すべきたくさんの人たち」と出会うまでは自分の命を投げ出してもいいと思っていたのかもしれません。

しかし、大切な人が出来て、自分1人の命ではないと思えた時、もっと自分の命を、存在を、大切にしなきゃと思ったんですね。

性別問わず、非常に多くの共感を集める表現だと思います。

そしてここで、『HERO』という曲名が効いてきます。

全世界中の人々にとってのヒーローにはなれない。

そんな心中が、「臆病者」という言葉で表現されているんですね。

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小さい頃に身振り手振りを
真似てみせた
憧れになろうだなんて
大それた気持ちはない
でもヒーローになりたい
ただ一人 君にとっての
つまずいたり 転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ
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「小さい頃に身振り手振りを真似てみせた」・・・つまり、「○○戦隊」とか「△△マン」のような、ファンタジックな「ヒーロー」。

幼少期、そんなヒーローに憧れ、変身ポーズや技を繰り出す時の動きを真似ていた。

そんな、銀幕やTVの中の“ヒーロー”のように、世界をやっつけようとする悪者から地球を守るような存在にはなることはできない。

でも、大切な人を守ってあげられるような“ヒーロー”になりたい。

 

これは、Aメロ・Bメロで描かれた、「自分の命と引き換えに世界を救えるヒーロー」と「誰かが名乗り出るのを待っているだけの臆病者」という対比と重ねることができます。

 

つまり、「臆病者=(“僕”が目指すべき)ヒーロー」という図式が出来上がります。

この図式・・・一見真逆な言葉同士を、表裏一体なのだとする、発想力。

そして、「臆病なヒーロー」などという安直な表現はせず、Aメロ~1番サビまでの歌詞の全体で言い表す構成力。

1番の歌詞は、そんな桜井さんの天才ぶりを存分に味わえる内容となっています。

 

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駄目な映画を盛り上げるために
簡単に命が捨てられていく
違う 僕らが見ていたいのは
希望に満ちた光だ
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映画の中で、世界を救おうとする”ヒーロー”。

しかしそこでは、世界を救おうとする代償として、多くの命が捨てられていきます。

小さい頃に見ていた時には「憧れ」だったはずの、みんなの”ヒーロー”。

でも、例えそのヒーローが世界を救ったとしても、捨てられた命が帰って来ることはありません。

そんな世界は、本当に救われたと言えるのでしょうか・・・?

 

「僕」はそんな問いを、力強く、ストレートに、「違う」と一刀両断しています。

こうして、小さい頃に憧れていた「ヒーロー」を明確に否定したわけです。

 

本当の“ヒーロー”とは、自分の中の大切な人を救うだけの“ヒーロー”。

その“ヒーロー”こそが、希望に満ちた光。

それこそが、画面の中の見せかけのヒーローではなく、本当の意味での強さを持った“ヒーロー”。

そんな“ヒーロー“に、大切な人にとっての光に、僕はなりたいと願っているんですね。

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僕の手を握る少し小さな手
すっと胸の淀みを溶かしていくんだ


人生をフルコースで深く味わうための
幾つものスパイスが誰もに用意されていて
時には苦かったり
渋く思うこともあるだろう
そして最後のデザートを笑って食べる
君の側に僕は居たい
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人生の中で経験していく苦労や悲しみなどが「スパイス」と表現されています。

ただ甘いだけの食事では、味に深みが出ません。

そこに適量のスパイスがかかっているからこそ、味に深みが生まれてくる。

それは、人生も同じ。

人生をフルコースで「深く」味わうためには、やはりスパイスは欠かせません。

誰にも辛い時期はありますし、それがあるからこそ、人生に深みが生まれます。

「君」がそんな困難に向かっている時に、一緒になって壁を乗り越えていく存在=ヒーローに、「僕」はなりたい。

だけど最後には、甘いデザートのような、幸せな最期を迎えてほしい。

そしてその側に、ヒーローの任務を全うした「僕」は居たいというわけです。

とてもおしゃれな表現ですね!

 

ここで検討したいのが、「君」とは誰かということです。

曲だけを追っていくと、恋人や配偶者と捉えられます。

しかし、(一次情報を探すことが出来なかったのですが)桜井さんはこの曲について「親の目線で書いた」と語っていたようです。

そして、僕の手を握るのは「少し小さな手」。

自分より背の低い恋人や配偶者と捉えることもできますが、自分の子どもだと考えた方が、しっくりくるような気がします。

 

しかし後半に目をやると、“最後のデザートを食べる=息絶える”君=子ども であるとは考えにくい。

親が子どもを看取るということは、あり得ない話ではありませんが、この流れでその意味と取るのはだいぶ不自然です。

むしろ、「一生、夫婦一緒に過ごしていこうね」と捉えるのが自然です。

 

うーん・・・

ここは結局、各々の立場によって色んな解釈ができると言っていいのかも知れません。

 

例えば、病気で先が長くないお子さんであれば、こういう状況だってあり得ます。

両親や兄弟と解釈することも出来るでしょう。

聴く人の数だけ「君」が違って聞こえていいのだと思います。

そんな、懐の深い歌詞だと言えるでしょう。

 

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残酷に過ぎる時間の中で
きっと十分に僕も大人になったんだ
悲しくはない 切なさもない
ただこうして繰り返されてきたことが
そうこうして繰り返していくことが
嬉しい 愛しい

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ただ純粋に、憧れのヒーローを追うだけで良かった幼少時代。

それから長い長い時間が経って、いつしか違ったヒーローの形を願うようになった。

あの時のピュアな気持ちは、二度と戻って来ることはない。そういう意味では、時の流れは残酷なのだけど、代わりにたくさんの大切なものを得ることができた。

だから、悲しくも切なくもない。

そうではなくて、大切な人と時間を共有していくことが嬉しくて、どんどん愛しくなってくる・・・。

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ずっとヒーローでありたい
ただ一人 君にとっての
ちっとも謎めいてないし
今更もう秘密はない
でもヒーローになりたい
ただ一人 君にとっての
つまずいたり 転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ

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今まで歌われてきた全ての思いが爆発する大サビです。

 

今までは「なりたい」だったのが、ここで初めて「ありたい」になりました。

「君」との時間を繰り返してきた中で、最後の最後まで一緒に居て、ヒーローで居続けたいという意識が強くなった。そんな、強い決意が感じられます。

 

○○戦隊とか△△マンとは、往々にしてどこか謎めいているものです。

それが、フィクションの物語には深みを与えています。

でも、そんなヒーローではなくて、君だけにとってのヒーローでありたい。

そんな願いを、これまでとはまた別の表現で訴えかけてきます。

 

また、1・2番のサビは裏声なのに対して、大サビだけは地声で歌われています。

そんな緩急が、さらに聴く者の心を震わせるのかもしれません。

 

深読みすればするほど、どんどん深みにはまっていく『HERO』。

そんな体験を与えてくれる桜井さんは、私にとって、永遠のヒーローです。