ミスチル桜井さんが好きすぎて・・・

~目じゃないとこ耳じゃないどこかを使って見聞きをなければ見落としてしまうブログ~

es ~Theme of es~ ~不確実な時代の捉えどころのない人間の心を描いた、魂の叫び~ 前編

『es ~Theme of es~』は、Mr.Childrenが1995年5月10日にリリースしたシングルです。

この「5月10日」という日は、メジャーデビューアルバム『EVERYTHING』のリリース日ということで、Mr.Childrenにとって特別な日です。

最近だと、『Mr.Children 30th Anniversary Tour 半世紀へのエントランス』の東京公演がこの日に設定されたことで、話題になりました。

またこの曲は、ドキュメンタリー映画『【es】 Mr.Children in FILM』の主題歌。なので、曲名はそのままズバリ『esのテーマ』を英訳したものとなります。

 

◎「es」の意味について

〇esとは?

「es」とは、フロイトが提唱した心理学用語で、「無意識に自分の心を突き動かすもの」のような意味になります。(私は心理学の専門家ではないので、以下言葉の選び方が不適切な際は、ぜひご指摘ください)

つまり、自分が「よし、これをやろう」と意識的に考えるのではなく、無意識下で本能的に行っているものを指します。

例えば、「食欲(思う存分おいしいものを食べたい!)」「性欲(あの異性に近づきたい!)」「睡眠欲(眠いから寝たい!)」のようなもの。

〇egoとは?

しかし実際は、「好きなものだけ食べたいけど、栄養が偏っちゃうよな・・・」「本当はもっと話しかけたいけど、あまりガツガツ行き過ぎると嫌われちゃうよな・・・」「眠いけど、今は会議中だから頑張って起きていないと・・・」という形で、必ず「制約」を伴ってしまうものでもあります。

このように、esに制約を与え、コントロールする働きを持つのが「ego(自我)」です。

ego(自我)とは、“自分を自分として意識する”こと。自分という存在を意識できるからこそ、欲望のままに生きることは恥ずかしいという考えが芽生え、行動に抑制が生まれます。

〇super-egoとは?

その上で、「良心」「道徳心」などと訳されるのが、「super-ego(超自我)」と呼ばれるものです。

自分勝手でわがままな人のことを「エゴイスト」と呼んだりしますが、例えば「あの異性と付き合いたい。(=es)だけど、むやみに話しかけたりデートに誘ったりしたら嫌われるかも知れない。(=ego)そこで、どうやらあの異性が好きらしいあの人(恋敵)の悪い噂を立ててやろう」なんて考えてしまったら、egoが強すぎる状態(=エゴイスト)になってしまっていると言えると思います。

その時、「でもそんなことをしたら、あの人が悲しむはずだ。だれも傷つかない別の方法を考えよう」という形で、自分自身だけではなく、社会的にふさわしい行動を促す意識が「super-ego(超自我)」となります。

◎「恋」と「エゴ」について

この曲の1つ前のシングルである『シーソーゲーム~勇敢な恋の歌~』には、こんな一節があります。

 

恋なんて いわばエゴとエゴのシーソーゲーム

 

これはつまり、「恋っていうのは、社会的にふさわしいかどうかより、自分にとってどうするのが得なのかを考えるものなんだ」という意味になります。

そう解釈すると、桜井さんが捉えた「恋」というものは、とても不安定で、均衡を保ちづらい、まさに“シーソー”のような状態であると言えますね。

 

そしてこの『es~Theme of es~』にも、「恋」という言葉が出てきます。

そこでも、シーソーゲームで桜井さんが示した、いわば「恋」の定義をもとにしながら、解釈していこうと思います。

 

さて。

前置きがとても長くなってしまいました。

ここから、それぞれの歌詞を深読みしていきたいと思います。

 

※※このブログに書かれていることは、あくまで個人的な見解です。

桜井さんの本意をあぶり出そうというよりは、私の勝手な解釈を楽しんでいただくためのものです。

なので、「なるほど!ちなみに私はこう思ってます!」といった意見の交流はぜひしてみたいのですが、「桜井さんはそんなこと言ってないはず!」みたいなおっかない非難はこのブログの趣旨に反するので、コメントを承認しない可能性があります。ご了承ください。

 Ah 長いレールの上を 歩む旅路だ
風に吹かれ バランスとりながら

Ah “答え"なんて どこにも見当たらないけど
それでいいさ 流れるまま進もう

「レール」とは、人生に敷かれた自由の利かない道。

自分で切り拓いた道ではなく、別の誰かが敷いたレールの上を、ただ走らされているだけ。

風に吹かれてバランスを崩してしまいそうになるくらい、弱々しくて危なっかしい状態。

 

当時のMr.Childrenは、ミリオンヒットを連発する超売れっ子ミュージシャンでした。

でも、売れっ子になればなるほど、周りには人が群がり、身動きが取れなくなっていく。

いつの間にか、そんな窮屈な“レール”を歩かされているだけの自分。

今、自分がやるべきこと、やりたいことの答えを見つける余裕がないまま、ただ惰性で進んでしまっている。

そんな自分に嫌気がさすけど、どうしたらいいか分からないし、分かろうとしてももう疲れてしまった。

だから、いったんこの長いレールの上を淡々と進んでいこう。

そんな売れっ子だからこそ抱える苦悩が描かれているように思えます。

 

また、心理学的な観点から見たらどう解釈できるでしょうか。

「こうしなければいけない」という、いわゆる「超自我」に縛られて生きていることが、「長いレール」に例えられていると考えることができます。

でもその「超自我」は、おそらく自分の力で手に入れたものではなく、他人から手に入れた、きつい言い方をすると“押しつけられた”もの。もしそこに100%の納得を伴わないとすれば、その義務的な感情は、風で飛ばされそうなくらい、危ういものとなってしまうでしょう。でも、何とか自分を保って、バランスを取りながら進んでいる。

 

これは、当時の桜井さんの立場を描いていると同時に、誰もがぶつかる普遍的な苦悩でもあるのではないでしょうか。

だれもが、自分が正しいと思った良心のみに沿って生きていけるわけではありません。建前やしがらみに縛られながら、何とか自分自身の思いとの均衡を保って生きていると思うのです。

「本当に自分のやりたいことって何だろう?」と常に自分に問いかけながら、日常に忙殺されていく。

その「本当にやりたいこと」が見つかる人は、ほんの一握りではないかと思います。

 

のちにリリースされる『GIFT』では、次のように歌われています。

 

「本当の自分」を見つけたいって言うけど

「生まれた意味」を知りたいって言うけど

僕の両手がそれを渡す時 

ふと謎が解けるといいな

受け取ってくれるかな

 

この曲の主人公も、「本当の自分」「生まれた意味」を見つけることができないでいたのかも知れません。

これはオリンピックのイメージソングでもあったので、「それ」とは一般には「メダル」と解釈できると思います。(深読みすると他の解釈もできますが、それはまたの機会に…)

様々な勲章を手にしてきた桜井さんであってもなかなか見つけられなかった「本当の自分」「生まれた意味」を見つけるのに苦労したからこそ、オリンピックのメダリストであっても、「メダルを獲る」という1つの自己実現を果たした時になってようやく、そこにたどり着くのではないかと、歌っていたのかもしれません。

 

そんな、答えの見つからない長いレールの上を歩んでいる多くの人にとって、刺さる歌詞ですよね。

手にしたものを失う怖さに
縛られるぐらいなら
勲章などいらない

当時のMr.Childrenは、レコード大賞を獲ったり、オリコンチャートを席巻したりと、数々の“勲章”を手にして、人気絶頂でした。

しかし、何かを手に入れると、その瞬間にそれは失う恐怖に変わります。

人気も実力もあったはずのミュージシャンが急に凋落することも、決して珍しくはないですよね。

それも、元々の評価が高い人ほど、その落差は激しく、痛みを伴います。

それならいっそ、世間の評価の権化である“勲章”などない方が、気楽にのびのびと活動できるのかも知れません。

 

何が起こっても変じゃない
そんな時代さ覚悟はできてる
よろこびに触れたくて明日へ
僕を走らせる es

 

まさに、今の地位をいつ失ってもおかしくないような、不安定な立場にいた桜井さん。

それを自覚していたからこそ、ただ無意識的に自分を突き動かす何かにすがって、ただがむしゃらに生きていたのだと思います。

「よろこびに触れ」たくて僕を「走らせる」という表現が、ゆったりした曲調の中にも疾走感を生み出し、聴く者を奮い立たせてくれるように感じます。

 

 

桜井和寿語録から学ぼう②時々誰かが・・・

 

どうも、口笛少年です。

 

以前、桜井さんの過去の発言から学ぼう、という記事を書きました。

今回は、楽曲の中からある歌詞を取り出して、学んでいこうと思います。

 

今回取り上げるのは、この言葉。

 

時々誰かが

僕の人生を操っているような気がする

 

 『PADDLE』に出てくる歌詞です。

 

 実は、この世界は誰かがプログラムした仮想空間である、という説があるのです。

 これを、シミュレーション仮説と言います。

 これがもし本当だとしたら、私たちの人生は本当に操られていると考えることもできます。

 

――――――――――――――――――――――――――――

◎シミュレーション仮説とは

 シミュレーション仮説とは、私たちが暮らしているこの宇宙は、全てがコンピュータによってシミュレーションされた世界であるという説のことです。

 初めて聞くと、トンデモ理論のように思えますよね。

 でも、そこにはちゃんとしたロジックがあるのです。

 

 現在、コンピュータによって、かなりリアルな仮想空間を作れるようになりました。

 科学技術は物凄いスピードで発展し続けていますから、今後、現実と区別が付かなくなるようなクオリティーの仮想空間を作れる日も、そう遠くないと思います。

 すると、仮想空間の中の存在に意思を持たせることも出来るかもしれません。

 では、仮にそんな意思を持った住民が存在する、極めてリアリティーのある仮想空間の中にいる住民は、自分自身が仮想空間にいることに、気付いているでしょうか?

 答えは、「NO」です。

 

 では、もしこの世界が、そんな極度に発達した仮想空間であるとしたら、私たちはここが「仮想空間」であると気づくことはできるのでしょうか。

 答えは「NO」でしょう。

 

 仮に、この世界がさらに発達し、意思を持った住民がいる仮想空間を作り出したとします。

 これを、仮想空間Aとします。

 その仮想空間が誕生した時点で、仮想空間を作り出した世界自体も仮想空間である可能性が生まれます。

 この、仮想空間Aを作り出した世界を、仮想空間Bとしましょう。

 つまり、仮想空間Bの中に、仮想空間Aが出来上がったのです。

 それが成り立った時点で、その仮想空間Bを作り出した世界も、仮想空間である可能性が高くなります。それを、仮想空間Cとします。

 仮想空間Cを作ったのが仮想空間D、仮想空間Dを作ったのが仮想空間E・・・と考えていくと、そうやってさかのぼっていくと、最初に仮想空間を作ったオリジナルの現実世界から、無数の仮想空間が生まれていることになります。

 

 つまり、こんな感じです。

 仮想空間A

  ↑作る

 仮想空間B

  ↑作る

 仮想空間C

  ↑作る

 仮想空間D

  ・

  ・

  ・

  ↑

 現実(オリジナル)世界

 

 この「仮想空間の中の仮想空間」が無数に存在すると仮定すると、この世界がオリジナルの現実世界である確率は、ほとんど無に等しいということになるのです。

 つまり、私たちの人生は、誰かが操っている世界の一幕である可能性が、限りなく100%に近づくことになります。

 

 ただしこれは、「高度に発達した文明は、必ず仮想空間を作りたくなる」という仮定に基づいた仮説ですし、そもそも本当に、そんなバーチャルリアリティーを作るのが可能なのかも定かではありません。

 なので、本当のところは分からないのですが、ロジックとしてはしっかりしているのではないかと思います。

――――――――――――――――――――――――――――

 もし、この世界が本当に仮想空間で、操っているプログラマーがいたとしたら、仮想空間内でこんな歌詞が声高らかに歌われていることに、「ば・・・バレたのか!?」と驚いているかも知れませんね!

 

 以上、最後まで読んでいただきありがおうございました。

 

HERO~真のヒーローの意味を問うた、天才桜井和寿の構成力が光る一曲~

 

こんにちは、口笛少年です。

今回扱うのは、2002年リリースのMr.Children24枚目のシングル『HERO』です。

NTTのCMに使われており、2004年リリースのアルバム『シフクノオト』にも収録されています。(余談ですが、私が「ミスチルのアルバムの中で一番好きなのは?」と聞かれて必ず答えるのがこの『シフクノオト』です)

 

※このブログに書かれていることは、あくまで個人的な見解です。

桜井さんの本意をあぶり出そうというよりは、私の勝手な解釈を楽しんでいただくためのものです。

なので、「なるほど!ちなみに私はこう思ってます!」といった意見の交流はぜひしてみたいのですが、「桜井さんはそんなこと言ってないはず!」みたいなおっかない非難はこのブログの趣旨に反するので、コメントを承認しない可能性があります。ご了承ください。

 

――――――――――――――――――――――――――――
例えば誰か一人の命と
引き換えに世界を救えるとして
僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ

愛すべきたくさんの人たちが                                                                 
僕を臆病者に変えてしまったんだ
――――――――――――――――――――――――――――

この曲の主人公“僕”は、「愛すべきたくさんの人たち」と出会うまでは自分の命を投げ出してもいいと思っていたのかもしれません。

しかし、大切な人が出来て、自分1人の命ではないと思えた時、もっと自分の命を、存在を、大切にしなきゃと思ったんですね。

性別問わず、非常に多くの共感を集める表現だと思います。

そしてここで、『HERO』という曲名が効いてきます。

全世界中の人々にとってのヒーローにはなれない。

そんな心中が、「臆病者」という言葉で表現されているんですね。

――――――――――――――――――――――――――――
小さい頃に身振り手振りを
真似てみせた
憧れになろうだなんて
大それた気持ちはない
でもヒーローになりたい
ただ一人 君にとっての
つまずいたり 転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ
――――――――――――――――――――――――――――

「小さい頃に身振り手振りを真似てみせた」・・・つまり、「○○戦隊」とか「△△マン」のような、ファンタジックな「ヒーロー」。

幼少期、そんなヒーローに憧れ、変身ポーズや技を繰り出す時の動きを真似ていた。

そんな、銀幕やTVの中の“ヒーロー”のように、世界をやっつけようとする悪者から地球を守るような存在にはなることはできない。

でも、大切な人を守ってあげられるような“ヒーロー”になりたい。

 

これは、Aメロ・Bメロで描かれた、「自分の命と引き換えに世界を救えるヒーロー」と「誰かが名乗り出るのを待っているだけの臆病者」という対比と重ねることができます。

 

つまり、「臆病者=(“僕”が目指すべき)ヒーロー」という図式が出来上がります。

この図式・・・一見真逆な言葉同士を、表裏一体なのだとする、発想力。

そして、「臆病なヒーロー」などという安直な表現はせず、Aメロ~1番サビまでの歌詞の全体で言い表す構成力。

1番の歌詞は、そんな桜井さんの天才ぶりを存分に味わえる内容となっています。

 

――――――――――――――――――――――――――――
駄目な映画を盛り上げるために
簡単に命が捨てられていく
違う 僕らが見ていたいのは
希望に満ちた光だ
――――――――――――――――――――――――――――

映画の中で、世界を救おうとする”ヒーロー”。

しかしそこでは、世界を救おうとする代償として、多くの命が捨てられていきます。

小さい頃に見ていた時には「憧れ」だったはずの、みんなの”ヒーロー”。

でも、例えそのヒーローが世界を救ったとしても、捨てられた命が帰って来ることはありません。

そんな世界は、本当に救われたと言えるのでしょうか・・・?

 

「僕」はそんな問いを、力強く、ストレートに、「違う」と一刀両断しています。

こうして、小さい頃に憧れていた「ヒーロー」を明確に否定したわけです。

 

本当の“ヒーロー”とは、自分の中の大切な人を救うだけの“ヒーロー”。

その“ヒーロー”こそが、希望に満ちた光。

それこそが、画面の中の見せかけのヒーローではなく、本当の意味での強さを持った“ヒーロー”。

そんな“ヒーロー“に、大切な人にとっての光に、僕はなりたいと願っているんですね。

――――――――――――――――――――――――――――

僕の手を握る少し小さな手
すっと胸の淀みを溶かしていくんだ


人生をフルコースで深く味わうための
幾つものスパイスが誰もに用意されていて
時には苦かったり
渋く思うこともあるだろう
そして最後のデザートを笑って食べる
君の側に僕は居たい
――――――――――――――――――――――――――――

人生の中で経験していく苦労や悲しみなどが「スパイス」と表現されています。

ただ甘いだけの食事では、味に深みが出ません。

そこに適量のスパイスがかかっているからこそ、味に深みが生まれてくる。

それは、人生も同じ。

人生をフルコースで「深く」味わうためには、やはりスパイスは欠かせません。

誰にも辛い時期はありますし、それがあるからこそ、人生に深みが生まれます。

「君」がそんな困難に向かっている時に、一緒になって壁を乗り越えていく存在=ヒーローに、「僕」はなりたい。

だけど最後には、甘いデザートのような、幸せな最期を迎えてほしい。

そしてその側に、ヒーローの任務を全うした「僕」は居たいというわけです。

とてもおしゃれな表現ですね!

 

ここで検討したいのが、「君」とは誰かということです。

曲だけを追っていくと、恋人や配偶者と捉えられます。

しかし、(一次情報を探すことが出来なかったのですが)桜井さんはこの曲について「親の目線で書いた」と語っていたようです。

そして、僕の手を握るのは「少し小さな手」。

自分より背の低い恋人や配偶者と捉えることもできますが、自分の子どもだと考えた方が、しっくりくるような気がします。

 

しかし後半に目をやると、“最後のデザートを食べる=息絶える”君=子ども であるとは考えにくい。

親が子どもを看取るということは、あり得ない話ではありませんが、この流れでその意味と取るのはだいぶ不自然です。

むしろ、「一生、夫婦一緒に過ごしていこうね」と捉えるのが自然です。

 

うーん・・・

ここは結局、各々の立場によって色んな解釈ができると言っていいのかも知れません。

 

例えば、病気で先が長くないお子さんであれば、こういう状況だってあり得ます。

両親や兄弟と解釈することも出来るでしょう。

聴く人の数だけ「君」が違って聞こえていいのだと思います。

そんな、懐の深い歌詞だと言えるでしょう。

 

――――――――――――――――――――――――――――

残酷に過ぎる時間の中で
きっと十分に僕も大人になったんだ
悲しくはない 切なさもない
ただこうして繰り返されてきたことが
そうこうして繰り返していくことが
嬉しい 愛しい

――――――――――――――――――――――――――――
ただ純粋に、憧れのヒーローを追うだけで良かった幼少時代。

それから長い長い時間が経って、いつしか違ったヒーローの形を願うようになった。

あの時のピュアな気持ちは、二度と戻って来ることはない。そういう意味では、時の流れは残酷なのだけど、代わりにたくさんの大切なものを得ることができた。

だから、悲しくも切なくもない。

そうではなくて、大切な人と時間を共有していくことが嬉しくて、どんどん愛しくなってくる・・・。

――――――――――――――――――――――――――――
ずっとヒーローでありたい
ただ一人 君にとっての
ちっとも謎めいてないし
今更もう秘密はない
でもヒーローになりたい
ただ一人 君にとっての
つまずいたり 転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ

――――――――――――――――――――――――――――

今まで歌われてきた全ての思いが爆発する大サビです。

 

今までは「なりたい」だったのが、ここで初めて「ありたい」になりました。

「君」との時間を繰り返してきた中で、最後の最後まで一緒に居て、ヒーローで居続けたいという意識が強くなった。そんな、強い決意が感じられます。

 

○○戦隊とか△△マンとは、往々にしてどこか謎めいているものです。

それが、フィクションの物語には深みを与えています。

でも、そんなヒーローではなくて、君だけにとってのヒーローでありたい。

そんな願いを、これまでとはまた別の表現で訴えかけてきます。

 

また、1・2番のサビは裏声なのに対して、大サビだけは地声で歌われています。

そんな緩急が、さらに聴く者の心を震わせるのかもしれません。

 

深読みすればするほど、どんどん深みにはまっていく『HERO』。

そんな体験を与えてくれる桜井さんは、私にとって、永遠のヒーローです。

 

斜陽~美しき過去を想いながら憂うモノローグ~ 後編

こんにちは、口笛少年です。

『斜陽』の深読み後半です。

前半がまだの方はこちらからどうぞ。

斜陽~美しき過去を想いながら憂うモノローグ~ 前編 - ミスチル桜井さんの脳内を勝手に深読みしてみた

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ビルの影が東に伸びて

家路を辿る人の背中が増えてく

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

影が東に伸びて→日が西に傾いて=夕方になって、

家路をたどる人の背中が増えてく→帰宅ラッシュが訪れた

ですね。

一番では長々と、心中のことが語られてきましたが、ここからはしばらく、目の前の現実が描かれています。

人が集い笑っていた一番の終盤とは打って変わり、どこか寂しげな印象を受ける2番の序盤です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その営み それぞれの役割を

果たしながら 背負いながら歩いてく

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1つ1つの背中に、家庭や仕事、人間関係など色んな悩みがあって、別々の立場があるのです。

当たり前のことだけど、ぼんやりと俯瞰で見ていると、忘れがちな真実かなと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

憂いをおびたオレンジ色の空

眩しさは消えてもまだ温かい

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここで初めて、「オレンジ色」という色が出てきました。

それまで出てきた「青」「蒼」という色は、心の中にある空の色でした。

対して、現実世界で目の前に広がるのは、オレンジ色の空でした。

それも、憂いをおびた空でした。

“美しい過去”(青い空)と“憂いをおびた現在”(オレンジ色の空)との対比によって、まさに『斜陽』という曲名を鮮明に表現しています。

 

そして、ここの深読みポイントは「まだ温かい」という部分です。

小説『斜陽』では、貴族という身分から没落し、恋や人生に絶望した主人公・かず子が、“他人もみな辛い中を必死で生きているんだ”ということに気付いたことで、自分も頑張って生きていこうという気持ちが生まれます。そして、それを暗示するように「朝ですわ」というセリフが生まれます。

オレンジ色の、憂いをおびた空に浮かんだ、西へ没していく太陽。

しかし、やがてその眩しさが消えても、次の日になれば必ず日は昇ってきます。

太陽が冷え切ってしまうことは絶対にない。ずっと温かいままなのです。

だから、この「まだ温かい」には、きっとまた、朝日が射して、「青い空」が帰って来るだろうという「救い」の意味が含まれているような気がするのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

懐かしい歌をふと口ずさめば

愛しき人の面影がふと浮かび上がる

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここで、初めて「愛しき人」という特定の個人を表すような単語が出てきました。その「愛しき人」に何かを伝えようとしているわけではありませんが、初めてかつ唯一の、広い意味での”登場人物”となります。

 

“懐かしい”歌を口ずさんで、愛しき人の面影が浮かぶということは、その「愛しき人」はもう近くにはいないのでしょう。

 

そしてここで、初っぱなの「夏が終わる」という歌詞が効いてきます。

懐かしい歌=メジャーデビュー曲『君がいた夏』と考えると、

この「愛しき人」とは、『君がいた夏』に出てくる「君」だったりして・・・なんていう想像もできます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

心の中にある青い蒼い空

今尚 雲一つなく澄み渡る

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1番と全く同じ歌詞ではありますが、「愛しき人の面影が浮かび上がる」を受けていることで、それが果たす意味はかなり具体的になります。

つまり、その「愛しき人」と過ごした日々は、青く、時に蒼かったのだと思います。

(「青」と「蒼」、それぞれの意味は前編を参照)

でもやはり、今となってはきれいに澄み渡った思い出として記憶されているんですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その眩しさに また目を細めて

今日も僕は大空に手を伸ばしてみる

 

伸ばしてみる

伸ばしてみる

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「雲一つなく澄み渡る空」のような過去。

そんな過去が眩しく感じてしまうということは、今の状況は明るくないのでしょう。

だからこその、『斜陽』という曲名です。

そして、そんな「僕」は、今日も「大空に手を伸ばして」います。

美しい過去を想いながら、また戻りたいなと願う。

当然、何度手を伸ばしてみても、過去には戻れません。

でも、それを受け入れられずにいる「僕」。

その胸中は、ラストの「伸ばしてみる」が3回続くリフレインが物語っています。

 

ここらへん、何度も出てきた『君がいた夏』の歌詞にも重なります。

 

おもちゃの時計の針を戻しても

何も変わらない

Oh I will miss you

 

「過去には戻れない」という意味に、こんなに豊かな表現を再び当てはめてくる桜井さんの言葉のセンスはすごいなと思います。

 

またさらに深読みすると、”心の中にある大空に手を伸ばしてみる”ということは、この時期の桜井さん自身もやっていたのかな?という想像もできます。

この頃の桜井さんは45歳になり、家庭も持って、地位も得て、反骨的なロックソングを作るのは難しくなってきたでしょう。

年を重ねることで生まれていく人間的な深みもあり、ファンとしてはそんな桜井さんの変化を、同じ時代を生きる中で追いかけて、各々のやり方で味わっているわけですが、桜井さん本人としては、もしかすると物足りなさを感じる部分はあったのかも知れません。

だからあえて、メジャーデビュー曲を連想させる歌詞を書き、それを90年代のミスチルを思わせる雰囲気のメロディーに乗せることで、その物足りなさを満たしていた・・・という想像も出来てしまいます。

 

以上、最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

斜陽~美しき過去を想いながら憂うモノローグ~ 前編

どうも、口笛少年です。

今回取り上げるのは、『斜陽』。

18thアルバム『REFLECTION』のうちの一曲です。

 

“斜陽”とは、

①夕日、沈みゆく太陽、そしてその光や、それらが見える時刻、といった「夕方」に関連するもの

という意味がありますが、転じて、

②栄光が転落し、衰退・没落に向かう様子

も指します。

よって、「栄えた」と「没落」という2つが描かれていることになります。

またこの曲名は、太宰治の小説『斜陽』から取ったものでもあります。

なので、小説との関連も交えて、歌詞を深読みしていきましょう。

 

※このブログに書かれていることは、あくまで個人的な見解です。

桜井さんの本意をあぶり出そうというよりは、私の勝手な解釈を楽しんでいただくためのものです。

なので、「なるほど!ちなみに私はこう思ってます!」といった意見の交流はぜひしてみたいのですが、「桜井さんはそんなこと言ってないはず!」みたいなおっかない非難はこのブログの趣旨に反するので、コメントを承認しない可能性があります。ご了承ください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「夏が終わる」 その気配を

陽射しの弱さで無意識が悟るような

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ミスチルの曲で「夏が終わる」といえば、メジャーデビュー曲『君がいた夏』のこの部分ですね。

 

今夏が終わる もうさよならだね

時は二人を引き離して行く

 

これが後の深読みに関わってきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

時の流れ 音をたてぬ速さで

様々なものに翳りを与えてゆく

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

翳りを与えていく・・・まさに『斜陽』を言い表す表現です。

その翳りを、「時の流れ」が与えていきます。

つまりこの曲は、時が流れることで「栄えた」状態から「没落」に向かっていくんだよ、という曲全体の構造の説明になっていると言えるでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

心の中にある 青い蒼い空

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここで「青い」「蒼い」という2つの「あおい」が出てきます。

この2つは似ているようでだいぶ違った意味になります。

単純に色を表す場合だと、

青…青系統全般を含めた色

蒼…くすんでいて緑がかった色

という感じです。

ただし、どちらかというと「青」の方は、雲一つない空やきれいな海のような、澄んでいて爽やかな、プラスの印象を与える色のイメージが強いかと思います。

対して「蒼」は、“顔面蒼白”という熟語に使われていることから分かるように、くすんでいて、マイナスなイメージを持つ表現に使われることが多いようです。

 

そして、歌詞に出てくる「青い蒼い空」です。

このような、ある意味相反する2色が共存していることは、不自然なことと思うかもしれません。

しかしこの空は、「心の中」にあるのです。つまり、物質的な情景としての空の色というよりは、気持ち的なもの(イメージ)と考えるべきでしょう。

そうなると、とてもしっくりくる表現になります。

人の心の中が、100%澄んでいたり、100%くすんでいたりすることはあるでしょうか。

一見澄んだ心の人に見えても、ちょっとくらいはくすんだ部分はあるはずです。

一方で、一見くすんだ心の人に見えても、どこかに僅かでも、澄んだ部分を発見できるのではないでしょうか。

よってこの1行は、逆説的な表現かもしれませんが、実際はとても普遍的な人間の様を描いているのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今尚 雲一つなく澄み渡る

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そして今振り返ると、それは雲一つなく澄み渡っているというのです。

過去は往々にして美化されがちです。

実際は“青”に“蒼”が混じっていても、あとから振り返ると“青”の部分しか思い出せないということは、よくあることではないでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

陽気な声がそこには響いてて

青空の下 人は集い笑ってる

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここでは、「蒼」という表現は抜け、「青空」だけが広がっています。

そこに、楽しそうな人々がたくさんいる、というイメージですね。

そしてここは、本当に人が集い笑っているわけではなく、直前の歌詞同様、「僕」の心の中にある、美しい過去をイメージしているのでしょう。

太宰治『斜陽』との関連性

太宰治の小説『斜陽』は、語り手の心中を、誰に言うでもなく自分で叙述する、「独白体」という形式で書かれています。

その小説と同じように、この曲は語り手である「僕」の心の中を淡々と描いています。

そして、誰かに届いてほしい、というよりは、とにかく心の中を解像していくことに終始しているのです。

 

今まで見てきたように、この曲は「あなた」や「君」といった二人称の言葉が一切出て来ません。

これは、ミスチルの曲の中ではかなり珍しいことです。

例えば、『独り言』という自己完結しそうな題名の歌でも、何度も「君」という言葉が出てきます。「君にだけ聞こえりゃいいんだよ」という歌詞通り、独り言と言っておきながら、「君」にだけは届いて欲しいと願っています。

 

有名どころで例を挙げると、『生きろ』は同様に二人称が出てきません。

しかし『生きろ』は曲名からも分かる通り、相手を意識した曲です。「追いかけろ」「問いかけろ」「生きろ」と、聞き手に訴えかけています。

 

そういう意味で、この曲は太宰治『斜陽』になぞるような「独白(英訳すると”モノローグ”)体」チックな表現が、この曲の大きな特徴と言えるでしょう。

 

桜井和寿語録から学ぼう①詩が浮かんでくるのは・・・

どうも、口笛少年です。

私はこのブログとは別で、「桜井和寿語録」というTwitterアカウントを運営しています。

口笛少年@桜井和寿語録(@misuchiru700308)さん / Twitter

そこで呟いた桜井さんの発言から学べるものもたくさんあるはず!

・・・ということで、今回は歌詞から少し離れて、桜井さんの過去の発言から学んでみたいと思います。

 

今回取り上げるのは、この発言。

――――――――――――――――――――――――――――

詩が浮かんでくるのは、運動してたりジョキングしてたりとか、あとはお風呂入ったりとかですね。作ろうと思って作るとあまり出てこないので、逆に無意識に、頭が空っぽになった瞬間に出てくることが多いですね。

――――――――――――――――――――――――――――

これと似たような発言は、何回もされています。

「『名もなき詩』は全てジョキング中に作った」というエピソードは、ディープなファンなら知っている方も多いのではないでしょうか。

 

このことについて、SHOWROOMの前田社長のお話が参考になりました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

脳内のインプットとアウトプットの比率が、アウトプット側に寄った時に、アイデアが出ると考えています。これはどういうことかというと、例えば、お風呂に入るときをイメージしてください。スマホを持たないで入ったら100%脳内でアウトプットするしかありません。インプットするような浴室内の情報はほとんどなく、そういった場では、脳が自然と、自分から何かを生み出そう、と、活性化するのです。

 よく、シャワーのときや寝る前にアイデアを思いつくと言いますが、あれは「脳の比率をアウトプット側にむりやり寄せているから」なのです。インプットを受けている間は、そこに一定の意識やアテンションが割かれてしまうので、なかなかアウトプットには集中し切れません。 出典:前田裕二『メモの魔力』

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

教師をしている知り合いが、「授業のアイデアを思いつくのは、授業中が多い」と教えてくれたことがあります。授業中というのは、先生にとってはアウトプットに寄った時間ですので、同じ理由なのかなと思います。

 

また、心理学で「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」と呼ばれる理論があります。

脳が特定のものに注意や思考を向けず、安静状態にある時、脳内の複数の領域が活性化している状態になります。すると、脳内に散らばった思考を繋ぎ合わせることで、今まで思いもよらなかったアイデアが生み出せる、という理論です。

 

人は日常の中で、無意識のうちにものすごい量のアウトプットを行っています。

そんな毎日の中で、意識的にインプットをなくせるような状況を作り出すことで、桜井さんのように、クリエイティブなアイデアが思い浮かぶことが増えるのかもしれませんね。

 

以上、最後までお読みいただきありがとうございました。

 

Starting Over~己を変えたい人全てに向けた応援歌~ 後編

『Starting Over』の深読み後編です。

 

前編はこちら

Starting Over~己を変えたい人全てに向けた応援歌~ 前編 - ミスチル桜井さんの脳内を勝手に深読みしてみた

 

では、2番の最初から見ていきましょう。

 

――――――――――――――――――――――――――――

〇追い詰めたモンスターの目の奥に

孤独と純粋さを見付ける

捨てられた子猫みたいに

身体を丸め怯えてる

――――――――――――――――――――――――――――

何かを変えていきたい。

でも、見せかけの威勢の良さとは相反して、実は不安でいっぱい。

虚栄心や自尊心で隠されていたこの臆病な心内によって、次の一歩を踏み出せない。

そして、今まで自分を縛っていたもの、懲り固められていたものを「見付ける」のですね。

 

これを1番同様、映画『バケモノの子』とリンクさせてみましょう。

この映画の後半部分では、主人公の師匠だったバケモノが、弟子である主人公が親元へ帰っていってしまったことで大きなショックを受けます。そして、主人公の師匠として頑張ってきた状態から、すさんだ毎日を送る生活に様変わりしてしまいます。

バケモノは、弟子に対して自分の弱いところを見せまいと、虚勢を張って生活していたのでしょう。しかし内心は、色んなことに怯えていたのだと思います。

そんな場面とリンクする歌詞ですね。

――――――――――――――――――――――――――――

〇あぁ このままロープで繋いで

飼い慣らしていくことが出来たなら

――――――――――――――――――――――――――――

新しいものを見つけていきたいとは思っている。

生まれ変わった自分に会いたいとも思っている。

でも、「変わる」という行為はとてもエネルギーのいることで、“今”に安住しているのが一番ラク

目の前の“今”がどこにも行かないようにロープに繋いで、惰性で生きていく(飼い慣らしていく)ことが出来たなら、どんなに気楽だろう。

その方がラクに決まっているんだけど、「それでも変わりたいんだ!」という内に秘めた決意が、「出来たなら・・・」のあとに内在されているのだと思います。

 

世の中の人たちも、今の自分を変えたいと思っている人はたくさんいるはずです。

というより、ほとんどの人は自分の中の何かを変えていきたいと思っているのではないでしょうか。

しかし多くは、変わる自信がない、きっかけがない、覚悟がないという形で、結局は何も変われない自分のまま、という状況にあるのだと思います。

この部分は、そんな気持ちに寄り添い、共感しながら、自分を変える(今の自分に向けた散弾銃の引き金を引く)ことを後押ししている、優しい文章だと思います。

――――――――――――――――――――――――――――

〇いくつもの選択肢と可能性に囲まれ

探してた 望んでた ものがぼやけていく

「何かが生まれ また何かが死んでいくんだ」

そう きっとそこからは逃げられはしないだろう

――――――――――――――――――――――――――――

変わる?

今のまま?

どう進む?

自分に何ができる?
人は誰しも、常にいくつもの候補の中から選択を迫られます。

その中に、「こうしていきたい!」「こんな自分になりたい!」というものがあるはずです。

でも、選択肢が多ければ多いほど、「実はこうするべきなんじゃないか?」という迷いが生じてきます。

でもそんな胸中はお構いなしに、時は進んで行きます。

どんなに立ち止まりたくても、周りが変化していく以上、自分も何かを選択し、動いていかなければいけません。

ずっとずっと、その場にとどまっているわけにはいかないのです。

 

特にミスチルのようなミュージシャンは、時の流れに合わせて変化を付けていかないと、生き残ってはいけません。

この急激に社会が変わっていく時代に、その時その時のリスナーの心を打ち続けるためには、常に変化を続けていかないといけない。きっと、そこから逃げられはしないのでしょう。

 

――――――――――――――――――――――――――――

〇穏やか過ぎる夕暮れ

真夜中の静寂

またモンスターが暴れだす

僕はそうっと息を殺し

弾倉に弾を込める

この静かな殺気を感づかれちまわぬように

――――――――――――――――――――――――――――

穏やか過ぎる夕暮れとあります。

穏やかな夕暮れ、ではありません。

穏やか”過ぎる”夕暮れなのです。

あまりにも淡々と(穏やかに)過ぎていく日常。

それは、気楽で心地いいものかもしれない。

でも、穏やか”過ぎる”って、寂しいことではないでしょうか。

もっと刺激的な日々を送りたい一方で、この平凡な毎日に安住してしまっている。

そのことに本当は嫌気がさしてしまう胸の内が、この“過ぎる”という言葉で表現されています。

そして訪れる、真夜中の静寂。

日が暮れて夜になる(=平凡な毎日がとめどなく続いていく)と、余計に寂しくなってしまう。

それが続いていくことで、自分の中に残っていた「変わりたい!」という気持ち(=モンスター)が湧き上がって(=暴れ出して)きます。

でも、自信がない。

「こうなりたい」という自分と今の自分を比べた時、理想に近づけるのか不安でしょうがない。

そんな葛藤が続いていく中で、憧れに近づきたいという気持ちが、少しずつ少しずつ、増幅していく。

だけど、その気持ちを表面化できる(=静かな殺気を感づかれてしまう)ほどの勇気はない・・・。

 

ここの歌詞と非常に近いメッセージを感じるのが、Starting Overの8年前にリリースされた『彩り』の一節です。

憧れにはほど遠くって 

手を伸ばしても届かなくて

カタログは付箋したまんま 

ゴミ箱へと捨てるのがオチ

 

新しいことを模索し続け、トップランナーとして走り続けている桜井さんだからこそ、憧れに近づくための自分を変えていくことの難しさを知っているのだと思います。

だからこそ、弱者にとことん寄り添った優しい歌詞を生み出せているのでしょう。

 

因みに、この曲において「静寂」は、「せいじゃく」ではなく「しじま」と読みます。これは大和言葉と言って、読み方が異なるだけで意味はほとんど変わりません。(「今日」を「こんにち」と読んでも「きょう」と読んでも意味は変わらないのと同じことです)

桜井さんの作曲は、メロディを先に作って後から歌詞を当てていく、というスタイルですから、メロディに乗せた時にリズムがいいと判断してこの読み方にしたのだと思います。

しかしもう一歩踏み込んで深読みすると、「せいじゃく」が自然の中で物音がしないことを中心に表現されるのに比べ、「しじま」は人の沈黙を主に意味しているそうです。よって、「家の外が静かだなぁ」というよりは「僕の心の中は何も起こっていない空虚な状態だなぁ」のような、非常に内向きの意味合いが強い比喩表現であると考えていくと、この曲にはそちらの読み方の方が合っている気がします。

 

――――――――――――――――――――――――――――

〇今日も 僕だけが行ける世界で銃声が轟く

眩い 儚い 閃光が駆けていった

「何かが終わり また何かが始まるんだ」

こうしてずっと この世界は廻ってる

「何かが終わり また何かが始まるんだ」

きっと きっと

――――――――――――――――――――――――――――

一番では“溜め”に使った「僕」の前の拍に、大サビでは「今日も」という文字を入れ込む。

桜井さんらしい手法だなと思う反面、初めて聞いた時は鳥肌が立ちました。

と、そんな個人の感想は置いておいて・・・

 

一番の歌詞に、「こうしてずっと この世界は廻ってる」が加わります。

そして、「何かが終わり また何かが始まるんだ」が繰り返されます。

何かを終わりにして何かを始める(=自分の中の何かを変えていく)のは、確かに大変なことなんだけど、でも、世界はその繰り返しで進んできたんだよ。

だから、重い腰を上げて、一歩踏み出してみようよ。

そうしたら、きっと何かが見えてくるはずだよ。

きっと・・・

きっと・・・

ここはそんな、それまで自分たちと向き合ってきた上で語られる、リスナーに向けられたメッセージなのだと思います。

 

1番のサビでは、閃光が「今までのミスチルという存在をいったんリセット(何かが終わり)して、新しいミスチルをもう一度構築していこう(何かが始まる)よ!」と叫んでいたのでした。

そこで心動かされた桜井さん自身が、今度はリスナーにも「新しい自分を構築していこうよ」と訴えている・・・

そういった構造であると考えると、曲全体がきれいにまとまっていくと思います。

 

多かれ少なかれ、人生のあらゆる場面で、私たちは自身を「変えていく」ことを強いられます。

そこで躊躇してしまうと、周囲や時代に取り残されてしまいます。

しかし、「変えていく」ことって凄く怖くて、労力の要ることです。

この曲は、そんな「変えていく」ことの大変さに寄り添いながら、「でも、頑張って変えていこうよ」と背中を押してくれます。

そしてそのメッセージを発信しているのが、今までミュージシャンとして変化、そして進化し続けてきた桜井さんだということが、この曲の歌詞に重みを与えていると言えるのではないでしょうか。